医療と健康

「医療に対する思い込み度テスト」(今の医療について考える)

今、日本では医療に対して多大な期待が持たれています。しかし過度の期待はどうかと思います。自分の健康をすべて他人任せにはしない方がいいと思います。ここで、自分の医療に対しての依存度が判るテストがありますので一度トライしてください。「大往生したけりゃ医療にかかわるな」で有名な著者、中村仁一氏の作られたテストです。これにより自分の医療における思い込みがチェックできます。15問中いくつ「〇(まる)」がつくか、やってみてください。

① ちょっと具合が悪くなると、すぐ医者にかかる
② 薬を飲まないことには病気はよくならない
③ 病名がつかないと不安
④ 医者にかかった以上、薬をもらわないことには気がすまない
⑤ 医者は病気の事ならなんでもわかる
⑥ 病気は注射を打った方が早くよくなる
⑦ よく検査するのは熱心ないい医者だ
⑧ 医者にあれこれ質問するのは失礼だ
⑨ 医者はプロだから、自分に一番いい治療法を教えてくれるはず
⑩ 大病院ほど信頼できる医者がたくさんいる
⑪ 入院するなら大病院、大学病院が安心できる
⑫ 外科の教授は手術がうまい
⑬ マスコミに登場する医者が名医だ
⑭ 医学博士は腕がいい
⑮ リハビリはすればするほど効果がでる

いくつ「〇(まる)」がついたでしょうか?テストを作られた中村仁一さんの説明を読んで考えてみてください。

①ちょっと具合が悪くなると、すぐ医者にかかる

国民保険によりわずかな自己負担額で、手軽に医者にかかれる状況になることや「素人判断で様子を見していて、手遅れになったらどうするのか」という医療側の脅しが利いているせいで、ちょっと頭が痛いだけですぐCT検査を希望する情勢が続いています。原因療法があるため受診した方がいい病気は、そんなに多くありません。病気を治す力の中心をなすものは、本人の自然治癒力です。「本人に治せないものを、他人である医者に治せない」病気や怪我を治す力の中心をなすものは、本人の自然治癒力で、少々の怪我、病気は医者にかからなくても薬を飲まずに放っておいても治ります。薬は援助物資であり、医療者は援助者にすぎません。風邪など、原因の大部分がウイルスの場合は、安静、保温、栄養の下、発熱の助けを借りて自分で治すしかないのです。医者にかかったからといって早く治せるわけではありません。かつて、四半世紀以上も前にアメリカ合衆国の権威のある学術専門誌に「病気の80%は医者にかかる必要がない、かかった方がいいのが10%強、かかったために悪くなったのが10%弱」と発表がありました。その後、この発表に対する反論がないところからみると、これは現在も変わらないものと思われます。だから、軽い病気で病院に行って、重い病気をお土産にもらって帰る可能性は充分にあるのです。それゆえ、本来、病院は“いのちがけ”で行くところなのです。

② 薬を飲まないことには病気はよくならない

微熱がある、ちょっと鼻水や咳がでる、少しどこかが痛むなどの症状があれば、すぐに薬を飲もうとする人がいます。しかし、薬は援助物質であり、力ずくで病気を追い払ってくれるわけではありません。それどころか、症状は早く治そうとする身体の反応、警戒サインですから、それを無闇に抑えるのは「自然治癒」を邪魔することになり、治るのが遅くなると考えた方がいいのです。ただ、よほどしんどければ、治りが遅くなるのを覚悟のうえで、苦痛の軽減、症状の緩和のために、ごく短期間、薬を服用するのは止むを得ません。

③ 病名がつかないと不安

この背景には、医学がこんなに発達したのだから、病名さえつければ必ず何とかなるはずという、近代の医療に対する重大な誤解、錯覚があります。「原因がわからなければ、どうしようもない」とよく言われていることと、表裏をなしているものと思われます。感染症と異なり、難病、生活習慣病は、その原因が体質や素質(遺伝子に問題)、悪い生活習慣、老化など多岐にわたり、特定できません。したがって、除去、撃退不能のため、完治ということはないのです。それなのに、病名がついただけでほっとするのはおかしくありませんか。

④ 医者にかかった以上、薬をもらわないことには気がすまない

これも前述の通り、病気を治す主役が薬であるという思い込みによるものです。元来、化学物質である薬は異物であり、身体にいいもの、必要なものではありません。あくまで、利益と不利益を天秤にかけて、利益が上回ると思える時のみ使用すべきものです。小さいころからの薬物教育、健康教育の欠如が原因と思われます。

⑤ 医者は病気のことなら何でもわかる

身体や病気のことはいろいろわかってきましたが、まだわからないことがたくさんあります。否、判らないことのほうが多いといっていいのではないでしょうか。したがって、いくら勉強していてもわからないことが、いくらでもあるのです。しかし、患者を前にした臨床場面では、「わからない」といえばヤブ医者扱いされてしまうので、わかっているような顔をして理屈をこねることになります。だから、わからないことをわからないとはっきりといえる医者は、よほど勉強しているか、不勉強を棚に上げて臆面もなくわからないといえる鉄面皮な医者かのどちらかでしょう。ただ、実際問題として、患者に向かって「わからない」というにはよほどの勇気が必要です。それにもかかわらず口に出せる医者は、何がわかっていて何がわからないのかを心得ていると受け取り、信頼してもいいと思われます。

⑥ 病気は注射を打った方が早くよくなる

胃や腸管は、厳密にいえば体内ではなく、体外です。飲み薬は吸収されて初めて体内に入ります。それも100%ではありません。ほかの飲み薬や食べもの・飲み物の影響で、さらに減少することもあります。それに比べると、たしかに、筋肉注射や血管注射は直ちに100%体内に入り、効果の現れ方も早い。しかし、今も、風は注射一本で治ると思っている年寄りは結構たくさんいます。過去に、治りかけの時期に注射を打って治ったと勘違いした体験の持ち主なのでしょう。いくら説明しても、頑固に注射を要求し、結局時間の無駄になることが多い。困ったことです。

⑦ よく検査するのは熱心ないい医者だ

詳しい病歴の聴取と丁寧な身体診療の所見から、8割くらい診断がつくといわれます。そして、検査はその裏づけのためのものという位置づけです。しかし、これには昨今、数値や画像などの客観的な証拠が示されないと承知しないという患者側の事情や、後で見逃しといわれるのを防ぐ訴訟対策、収入増を図るという医療経営上の問題などが考えられます。患者側も、このあたりの事情はわかっているようで、「集い」でも生活習慣病で通院している年金生活者から、よく苦情を聞かされます。「異常がなかった」といいながら、なぜ、毎月、あるいは2ヶ月に一度も検査をするのか、あれは私の身体のことを考えてくれているのではなく、病・医院の経営のためではないのか、と。ただ、薬という身体にとっての異物を長期間服用する以上、安全面から副作用の早期チェックという面もあります。このことが定期検査の意味に含まれていることも、忘れてはいけないと付言しています。しかし、限りある医療資源という観点からも、やはり納得してもらえる説明ができない検査はすべきでないでしょう。それに、精密検査をすれば、たしかに詳しくはわかるでしょうが、その結果を踏まえて好転させる手立てがあるかどうかが重要なのです。わかりさえすれば何とかなるはずと誤解している向きの、なんと多いことでしょうか。中には、辛い、苦しい、恥ずかしい検査もあります。なのに、ただわかっただけというのでは、何のために耐え忍んだのかわかりません。今後は、患者側も、結果に対して好転のすべがあるかどうか確かめたうえで、精密検査を考えるべきでしょう。

⑧ 医者にあれこれ質問するのは失礼だ

自分の身体のこと、病気のことなので、充分に納得いくまで聞いたほうがいいと思います。いやな顔をしたり、自分を信用できないのかなどと怒鳴りつけるようなら、即刻、医者替えをお勧めします。特に、むずかしい病気、耳にしたこともない病気などの場合、別に時間をとってもらい、家族や友人に同席を頼み、許可をもらって録音したり、イラストを使っての説明を求めればいいと思います。これらの要求を拒否されたら、これまた、医者替えの対象となるでしょう。なぜなら、悪い結果が出た場合、被害をこうむるのは医者ではなく、患者自身だからです。“想定外”のことが起こって、「信頼して任せたのに」と臍を噛んでも、医者は痛くも痒くもない。それは、患者の勝手な思い込みの結果に過ぎないのです。

⑨ 医者はプロだから、自分に一番いい治療法を教えてくれるはず

たしかに、プロとして自分が最善と信じる医療法を勧めるでしょう。しかし、現在、治療法が一つとは限らなくなっています。例えば、がんの場合、手術療法、放射線療法、化学療法とありますが、外科医なら、切りたいから外科医をやっているわけでしょうから、当然、最善として手術を勧めるはず。肉屋の大将が肉を買いに来た客に向かって「この季節、魚もおいしいですよ」とはいわないでしょう。同様に、「放射線治療もいいかもしれない」などとは口にしないと思われます。紹介状を書いてもらい、放射線科医の意見も聞き、それぞれの長所、短所をはっきりさせる必要があります。さらに、できれば、ほかの放射線科医や外科医の考えも聞いた方がいいでしょう。なぜなら、一度切り取られたり、放射線で大ヤケドを負わされた臓器は、二度と元の姿には戻らないからです。最終決断は、慎重の上にも慎重を期した方がいいと思います。ただ、この時、同じ大学の医局出身は避けるように。なぜなら、世話になった先輩の考えに異を唱える後輩というのは考えにくいから。例えば、玄関の扉の鍵が壊れた場合、鍵だけを取り替えてほしいとしましょう。それに対して、古くなっているので扉ごと替えなくてはいけない、あるいは玄関ごとつくり替えなくてはダメだといわれるかもしれません。そんな時、ふつう、プロだからといってセールスマンのいいなりにはならないはずです。ましてや、自分のいのちがかかっている時に、他人任せにするなど、もっての外というべきではないでしょうか。医療は、本来、針を突き立てたり、切ったりはつったりする傷害行為や、撫でたり揉んだり、妙なところへ指を突っ込んだりする強制ワイセツ行為を伴うものです。それが許される(違法性の阻却)のは、目的が診断、治療にあり、患者が理解し、納得し、同意しているからです。だから、苦しさも辛さも恥ずかしさも耐えられうるのです。目的がはずれ、“趣味”にあったりすれば、いくら医師免許があっても、手が後ろに回ることになるでしょう。人はそれぞれ生き方が違い、価値観が異なります。したがって、よく内容を理解し、納得したうえで、自分の行き方に照らして選択すればいいのです。医療者の考える最善と患者のそれとが喰い違うのは、当然ありうるでしょう。万一、後遺症が出た場合、それを抱えて生きるのは患者なのですから。したがって、医療者は自分の考えを押しつけて脅すのではなく、それが次善と思われても、患者の希望の範囲内での最善をプロとして尽くせばいいことになるはずです。

⑩ 大病院ほど信頼できる医者がたくさんいる

何をもって信頼できるというのか根拠が不明、ほとんど思い込みでしかありません。あえて信頼の根拠を尋ねてみると、親切だからとか、肩書きや出身大学が信頼できるとか、テレビに出演し、その道の専門と紹介されていたなど、臨床の腕とは何の関係もないことがほとんど。本当は、どこで、どのくらいの期間、どんな内容の修練を積んだかが必要なのですが、そのような情報はほとんどありせん。

⑪ 入院するなら大病院、大学病院の方が安心できる

今、医療過誤が表沙汰になっているのは、大学病院に多い。今まで安心と思い込んでいたのが、実態はそうでもないのが明らかになった形です。ただ露見したのが多いだけで、ほかの病院は安心なのかというと、そういうことでもありません。人間だから当然ミスはありうるという前提で、ヒヤリとした事例、ハッとした事例を現場から報告させ、それに対してどういう手立てを講じたかを公表する病院が現れました。そんなにヒヤリとしたり、ハッとしたりすることの多い病院はかなわないと考えるか、それを評価するか、判断するのは患者です。

⑫ 外科の教授は手術がうまい

時々、年寄りの患者の中には、手術の痕を見せながら、〇〇大学の△△教授に切ってもらったと自慢する人がいます。教授の選考基準に手術の上手、下手は入ってはいません。多くは研究論文の数と内容で審査をパスした研究科教授です。もちろん、手術の上手な教授もおられるでしょうが、それは個人の資質であって、教授だからではありません。昔は、一度も切った経験のない教授もいたとか、今でも「天皇杯争奪、全日本メスさばきコンテスト」などという催しは聞きません。

⑬ マスコミに登場する医者は名医だ

名医とは何ぞや。事件を起こしたり、ベストセラー本を書いたり、テレビ出演が多く名前の売れている有名な医者というのならわかります。 世渡りに長けているということは首肯できますが、先にも述べたように、現在の日本に、その腕の程を保証する客観的情報はないのです。このような状況下で『日本の名医百人』などという本が売れているようです。定義や基準もないのに、誰がどのように選んだものか、ただただ頭が下がります。

⑭ 医学博士は腕がいい

医学博士は、前述のごとく、腕と全く関係のない学問的業績に対して、学位を授与されたものです。かつて、医者をやめてジャーナリストに転身した永井明さん(故人)という人がいます。彼はその著者『僕が医者を辞めた理由』の中で、「感染ストレス時におけるラットの血中脂質濃度の変化」というタイトルで博士号を授与されましたが、「これは外科医としてなんの役にも立たなかった」と述べておられます。宜なるかなといえましょう。私自身持っていないから僻んでいうわけではありませんが、博士号は昔から「足の裏についた飯粒」といわれています。その意は「取らないと気持ちが悪いが、取っても食えない」。特に、石を投げれば医学博士に当たるといわれるぐらい、この業界には多いのです。

⑮ リハビリはすればするほど効果が出る

どんな状態でも、リハビリを徹底的にやれば、元の状態に戻れると勘違いしている向きが多いようです。しかし、どの程度まで回復するのかは、おそらく、発症時点でその天(一番いい状態)が決まっていると思われます。つまり、よくなるものしかよくならないというわけです。だが、頑張ったおかげで、こんなに回復したという話がよくテレビなどでとり上げられます。あれは、よくなるものが、頑張ってよくなっただけと考えた方がいいと思います。もちらん、頑張ったことは評価できます。けれども、頑張ったせいで、よくならないものまでがよくなったわけではないのです。さもないと、よくならないのは、本人の努力が足りないせいと決めつけられかねません。ふつうは、いくら熱心に励んでも、3ヶ月から6ヶ月ぐらいで状態は固定してしまうもの。そのレベルを低下させないように心がけることは大切ですが、もっともっとと頑張り続けると、貴重な残りの時間が“訓練人生”になってしまいます。例えば、手足がもげた場合、誰ももう一度生えてくるとは思わないでしょうから諦めもつきます。だが、麻痺した手足は、もう一度動かせるようになるのではないかとの思いから、5年も10年も費やして、一生懸命にリハビリをしている人がいます。その人生を空費している姿は気の毒という外ありません。リハビリテーションは、リ(再び)ハビリス(人間にふさわしい)エーション(状態にすること)の合成語で、人間が人間にとってふさわしくない状態に置かれた時、再びそれにふさわしい状態に戻すことを指し、必ずしも、病前の姿への復帰を意味するわけではありません。ましてや、手足の機能訓練などという、狭い考えでは決してないのです。 中国では、再建医学というそうで、残存機能や潜在機能をフル活用し、補助具や車椅子を使ったり、手すりをつけたり、段差をなくしたりして、病前の姿にこだわらず、病気や障害によって失われた生活を、もう一度立て直すことと定義づけられているようです。流石、漢字の国、「再建医学」とはいい得て妙です。

以上、中村さんのテストの説明です。皆さんの解答と比較して中村さんの説明はどうでしたか?上記の説明を読まれて「〇(まる)」の数に変化があったのではないでしょうか?自分は、「〇(まる)」は零でした。

医療に対する思い込み度テスト

中村さんはこう言われていています。『今の日本人は、医療に対して期待を抱きすぎています。幻想に近いといってもいいでしょう。この原因は何かを考えてみれば、やはり新聞、テレビ、といったマスコミの影響が大きいと思われます。「世界で初めて成功」(1000回目でやっと成功とは言わない)「これで治った」などと報道されると、医学の発達はすごい、これで安心、病気はすべて治ると思ってしまいます。しかし、マスコミが取り上げるのは、どんな場合か考えてほしいのです。ふつうで、一般的で、何の変哲もないことなど、とり上げるには値しません。特別なこと、珍しいこと、突出したことだから、記事になるのです。高度医療とか先端医療とか再生医療が強調されるため、どんな病気でも何とかなるという錯覚に陥る情勢が続いています。しかし、人間も生きものである以上、「老いて死ぬ」という大枠は、取り外しようがありません。つまり老いたものを若返らせることも、死ぬことを止めることも不可能という「限界」があるのです。

医療に対する思い込み度テスト

また「あなたは確実にこうなる」と断言するような医者がいたら、どんでもない嘘つきか、喰えないハッタリ屋といっていいと思います。さらに、現在は治療法も「松」「竹」「梅」といろいろあり、それぞれ一長一短があるのです。本当に発達したというなら、治療法は一つあれば充分のはず、それが、いく通りも存在するというのは、裏返せば、決定打に欠けるということです』医療に対する見方が変わってきませんか?
自分は気功を選んだときから、中村さんのような考えを持っていました。しかし医者でもない自分の意見などは誰にも聞いていただけません。今回は現役の医者である中村仁一さんの言葉なら説得力があると思い取り上げました。皆さんも医療に関してこの機会にお考えください。また気功治療は、医療とは違いその人の一番良い状態にする力があります。気功治療は上記の医療には当てはまりません。すこし気功の宣伝をさせていただきました。

お勧めの本
「大往生したけりゃ医療にかかわるな」(幻冬舎新書)中村仁一著

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